信玄の道をゆく

何かと忙しかった8月のぼくのスケジュールを考えると、子供たちをどこかへ連れていく最後の夏休み日程になりそうだということで、この週末、山梨県甲府市へと旅に出ていました。当然のごとく、子供は富士急ハイランドに行きたがるわけですが、福岡・北九州も含めて、そういう海、山、プールを含めてアトラクション系のものは十分に堪能したはずなので、今回は史跡や観光拠点を巡る大人旅。

 

そもそも、なぜ行き先が甲府だったのかというと、居住地が西東京ですので中央道で一本、という地理的優位性もあったのですけれども、やはりR.I.P 武田信玄が理由です。戦国時代といえば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のホトトギス三人衆が代表的なんですけれども、一方で、「日本史上、もっとも優れた軍略家は誰か?」と聞かれると、武田信玄、真田昌幸、真田幸村の三人は五本の指に入ってしまうくらい名将なのです。真田昌幸はもともと武田信玄の小姓(付き人)をやっていた出自ですから、幸村まで含めてルーツそのものです。

 

後に天下を取って江戸幕府を開く徳川家康も、その人生における戦いの中で大きな敗北は一度しか喫していないのですが、その一度、敗けた相手が武田信玄です。後に三方ヶ原の戦い、と呼ばれるものですが、このとき盟友だった信長は何をしていたかというと、怖くてやってこなかったんですね。もちろん、信玄の外交戦術で滋賀県あたりが不穏な動きを見せていたので、そちらを抑えておかねばならなかった、という大義名分はあるのですが、当時の状況から考えて織田信長は、武田信玄と、直接、戦うのが怖くてやって来なかった。なんじゃい!という家康も、このとき若干30歳で向こう見ずな勇気がまだ残っていましたから、「なんなら、ワシ一人でやっちゃるわい」と戦場に飛び出していきます。

 

作家の山岡荘八は『徳川家康』の中で、このとき家康は恐ろしさのあまり、ウンコを漏らしたと伝えています。家臣がそれを見つけて、「うん?なんか変なにおいがするぞ。これは、、、このにおいは、、、殿、まさか!」と詰め寄ると、家康は、「うむ、これは弁当に持ってきていた味噌が漏れただけじゃ」といって、それを舐めた、というキチャナイお話が残っています。

 

また、家康は晩年にも、ヤンチャを繰り返す伊達政宗を呼んで、正直に胸の内を打ち明け、これに心を打たれて政宗は、それ以後、おとなしくなるんですけれども、そのとき、家康が政宗に伝えた話というのも「オレの人生には、怖い人が4人いた。武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、伊達政宗だ」と、その筆頭に挙げています。

 

このときの恐怖が教訓となって、これ以後、家康は戦争に負けなくなるし、また、武田家滅亡後も、信長がその遺臣を皆殺ししていくのに対し、家康は積極的に武田家臣を登用していきます。武田の騎馬軍団ってのは、鎧が赤いんですね。現在でもそうですけれども、一般的に、戦闘服というのは迷彩服のように目立たない保護色が多い。その中で、武田軍団ってのは真っ赤だったわけです。戦場では目立った方が、功績があげられる。そして、そのうちに赤い軍団を見ただけで敵が震え上がる、という赤い彗星のシャアと同じ理屈ですね。家康は、この武田の遺臣たちを井伊直政に与えます。井伊直政というと、徳川四天王と呼ばれた家臣のうちの一人であり、ものまね界に例えると清水アキラ的ポジションの人なんですけれども、これ以降は「井伊の赤備え」と呼ばれ、最強の常勝軍団に成長していきます。

 

そんなに強いのに、なぜ滅びたのかというと、これはやはり経済的に小国だったんですね。織田信長がその領国だった尾張(愛知県)に加えて美濃(岐阜県)を統治したとき、二国あわせてだいたい150万石くらいの勢力になっています。もうこの2か国で、当時、日本一なんですね。信長が美濃をとった時点で天下統一を唱えたのは、誇大広告でも何でもないんです。ところが、信玄が治めていた甲斐(山梨県)と信濃(長野県)は、二国あわせて36万石くらいにしかならないわけです。

 

では、信玄はどうやって国力を高めていったかというと、金山を開発して米以外の収益を増やし、信玄堤と言われる堤防をつくって災害を減らしたりと、実は内政にも相当に力を注いで実効を上げていったわけです。

 

という蘊蓄を子供に話しながらドライブをしていくわけですけれども、では、現在の甲府はというと、ちょっと見所に乏しい気がします。まず、食べ物が「ほうとう」尽くしなんですね。右を見ても、左をみても、ほうとう屋さん。あとは軽く蕎麦、うどん。もちろん、市街地をじっくり歩けば美味しいお店もたくさんあるとは思うのですが。最初に山梨に行ったときは、「わぁ、なにこれ、ほうとうって、実態」とか感動もあったんですけれども、もうちょっと何かあっても良い気もします。

 

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甲府に行ったらここ、とも言われる昇仙峡にも登ってきました。絶景でしたし、富士山も望めるパワースポットということで、それなりに満足感はあったのですが、ここも麓から頂上まで「ほうとう」の看板。もうちょっと、イワナとか、ヤマメとか、山菜とかプッシュしてあっても良いはずなんですけれども。

旧・躑躅ヶ崎館の武田神社も訪れてみました。歴史的にみると、凄まじい偉人を生み出している山梨県。海がないとは言え、温泉、自然と観光資源も豊かなのですが、いまいち、それを活かしきれていない気もしました。信玄は

「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 敵は仇なり」

といって城を築かず館暮らしだったわけですけれども、人材だけはキラ星の如く育てていったわけですね。これは全国共通なのかもしれませんが、そのあたりの歴史的資源も考えていくと、もうちょっと面白くなりそうな気がしています。

(了)

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