教育という化け物

「教育は現場だけで起こってるんじゃない」

 

こんばんは。スタッフの冨樫です。

 

冒頭は、今学期から受け始めた教育系の授業の先生の言葉です。授業の初回、第2回と続けて言っていたのでこの先生の決め台詞なのかなと思ったんですが、3回目の授業では言いませんでした。残念。

 

しかし、この言葉は使わずとも、この先生の授業のテーマはつねにこの言葉にあるように思います。

 

教育に関わるファクターはあまりにも多い。教育現場で働く先生はもちろんのこと、現場の指針となる法規も細分化されているし、行政も分野によって地方自治体だったり国だったり、国も国会だったり文科省だったり厚労省だったり財務省だったり。「教育を変えよう」という志を持ったとしても、教員になるか役人になるか親になるか。否、人を育てることが教育であるならば、どんな職に就こうと就かなかろうと、人とかかわる限り「教育」というものから完全に離れることはできないのかもしれません。

 

そしてまた、これだけ多くの領域にまたがるということは、教育を俯瞰する存在もいないということです。どれか一つのファクターが「教育を変えよう」という志をもち一丸となって行動したとしても、ほかのファクターにも協力してもらわない限りただちに変えることはできません。

 

そしてそして、この「志」というものも、一つに定まるものではありません。教育の理想は時代とともに変わるどころか、同時代にもあいまいで多様です。教育という、人間を対象とするものの理想を考えるとは、人間そのものの理想を考えるようなことであるといえるかもしれません。

 

向かうべき道もあやふやで、向かおうにもただちに動けるものじゃない。そんな教育を扱うことは空しい気もしますが、さらに苦しいのは、教育はどんなに空しくても止めるわけにはいかない営みであるということです。すぐに動けるものじゃないけれど、動くことをあきらめたら、それぞれのファクターがそれぞれに動いて誰も望まぬ方向へ向かってしまうかもしれない。いっそのこと全停止しようにも、その穴を埋めるものを人間は知らない。

 

教育とは、ぐつぐつと動き回る化け物のようです。

 

しかし、教育とはそうであるべきなのではないかとも思います。教育を構成するものが一要素しかなくて、それが目指した方向にまっしぐらに進んでしまうのは気味が悪くありませんか。人間の理想が一つに定まっているならまだしも。

 

人間は、生きる意味なんて分からないけど、それでも生まれてしまったからには生きなきゃいけない。同じように、教育も、目指すべき理想なんてわかんないけど、始まってしまった以上営みを続けなければいけない。

 

かっこ悪くて面白い分野だな、と、授業を受けながら思いました。もう少し勉強を続けます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です