こんばんは。スタッフの冨樫です。
寒い日が続き、見ごろが長引いたという今年の桜。とはいえさすがにピークは過ぎたようで、花の間から青い葉が見え始めています。きっと一番のお花見日和はこの前の週末で、次の週末には桜吹雪に見舞われることでしょう。
満開だった桜が散る。このことに切なさを感じる人は少なくないでしょうが、私もその一人です。切なくって寂しくって悲しくって、本当に苦手です。
この春は何度かお花見に行くことができました。まだ花がまばらな時にも行ったし、満開になってからも行きました。
私は桜が散ってしまうことが苦手すぎて、満開の時や、咲く前ですら散ることを考えてしまいます。「来週には散ってしまう桜がいまは満開だ(orまだ咲いていない)。この美しさを満喫しておこう。ありがたや…」という風な感じです。
ただ、その様に考えている時点で、私は本当に目の前の桜を楽しめているのか、と、わからなくなります。私の目は満開の桜を映しながら、桜の散る姿を見てしまっているのではないかと。
私は高校を卒業するとき、「高校生である時間はたった3年間で、これからは卒業生としての時間が死ぬまで続くのだ」と思いました。桜にも似たことを感じます。満開なのはたった数日間。後の1年は満開でない時間が続きます。
じゃあその一瞬をありがたがろう、と思っても、「今」という時間は特殊です。「過去」や「未来」と違って、一瞬しかない「今」は、改めて体感しようとすると永遠のように長くて、動こうとするとスローモーションのようにうまくいかない。
ここで上手く動ける人もいて、そういう人はどんどん先へ進んでいるけど、私は未だに動けず、差が開くばかり…
「今」の正しいありがたがり方が、私にはまだ分かりません。
ただ、もし桜がヒントになるなら、こういうことかもしれません。
桜には、咲く姿、散る姿、つぼみ、葉と、つねに美しい「今」があり、決して「満開である『今』」と「満開でない『未来』」に二分されるものではない、と…。